Friday, January 22, 2010

1月17日放送後のまとめ


photo by ASA  " Moon"


Please enjoy beautiful pictures on Maui Asa took




今回の放送は UH BASKETBALLの中継のため短縮(通常1時間30分のところが1時間に)ということで かけられなかった歌やお話できなかった話題の内容などをここでご紹介させていただきます。


まず話題のほうから。


1月14日20時57分配信 毎日新聞


第142回芥川・直木賞(日本文学振興会主催)の選考委員会が14日、東京・築地の「新喜楽」で開かれ、直木賞は佐々木譲(じょう)さん(59)の「廃墟 (はいきょ)に乞(こ)う」(文芸春秋)、白石一文さん(51)の「ほかならぬ人へ」(祥伝社)に決まった。白石さんの父の故・一郎さんは1987年に直 木賞を受賞しており、芥川・直木賞史上、初の親子受賞となった。芥川賞は該当作がなかった。佐々木作品は北海道を舞台にした警察小説。


さて年に2回毎回選出されているこの文学賞。どういう風に作家が選ばれるのか調べてみました。



photo by ASA  "Haleakala sunset"



芥川龍之介賞


今回は残念ながら 該当者がいなかったという芥川賞。 1980年代には該当者なしが9回、第112回(1994年下半期)、第142回(2009年下半期) 、第121回(1999年上半期) ・・・・と該当作品なしは過去にも何度かあったかようです。


 また 第2回(1935年下半期) - 二・二六事件のため審査中止


1944~1949年 第2次世界大戦のため中止  と、歴史的背景が理由となった場合もありました。


<以下 ウィキペディアより抜粋>


芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)とは純文学の新人に与えられる文学賞である。通称は芥川賞。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考、授賞される。
大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞(直木賞)ともに創設し以降年2回発表される。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には正賞としてロンジン製の懐中時計、副賞として100万円(2008年現在)が授与され受賞作は『文藝春秋』に掲載される。
2009年現在の選考委員は池澤夏樹、石原慎太郎、小川洋子、川上弘美、黒井千次、高樹のぶ子、宮本輝、村上龍、山田詠美の9名。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その一ヵ月後の授賞式はともに東京會舘で行なわれる。
1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだ.設立当時から賞牌とし て懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成、佐藤春夫、山本有三、瀧井孝作ら11名があたることになった。
芥川賞・直木賞は1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べている。1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。

photo by ASA  ”Haleakala sunset #1”


転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健、1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。


芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新進作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に 三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることもなかった。また島木健作や田宮虎彦、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしば起こった。
第38回(1957年下半期)に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにも関わらず新人といえるかどうかが議論の的となった。大江の受賞が決定した時には、選考委員の佐藤春夫は「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」と皮肉を述べている。
現在ではデビューして数年経ち、他の文学賞を複数受賞しているような作家が芥川賞を受賞することも珍しくなくなっている。近年ではデビューして10年たち伊藤整文学賞、毎日出版文化賞と権威ある賞を受けていた阿部和重が作家的地位も確立していた2004年下半期に芥川賞を受賞し「複雑な心境。新人に与えられる賞なので、手放しで喜んでいられない」とコメントした。


作品の長さ
芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している。またノーベル文学賞の候補となるなど国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞を受賞していないが 村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、すぐに長編に移行したことが理由の一つに挙げられる。
なお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている。



photo by ASA ” Haleakala sunset #2”



直木賞との境界
純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木賞との境界があいまいになることもしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている。社会派推理作家の松本清張は「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとりこのとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。
芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。



photo by ASA ”Stars and Moon”


芥川賞作家でベストセラーになった作品


石原慎太郎 『太陽の季節』(第34回・1955年下半期)102万部
前述したように「太陽族」という新語とともにブームを巻き起こし、芥川賞の話題性を決定付けた作品である。裕福な家庭で育った若者の無軌道な生活を描いたもので、奔放な性描写が話題となった。選考では最終的に藤枝静男の「痩我慢の説」との対決となり、この2作に対し選考委員の意見が分かれた。委員のうち舟橋聖一、石川達三がそれぞれ欠点を指摘しつつも「太陽の季節」を終始積極的に支持、佐藤春夫、丹羽文雄、宇野浩二が強く反対し最終的に瀧井孝作、川端康成、中村光夫、井上靖が前者に同調した。作者が弟の石原裕次郎から聞いた話が題材になっており1956年に映画化され(主演長門裕之)石原裕次郎も脇役として出演、これが裕次郎のデビュー作となった。
大江健三郎 『死者の奢り・飼育』(第39回・1958年上半期)109万部
「飼育」が受賞作。大江は前年度の第38回(1957年下半期)にも「死者の奢り」で候補となっていたが、このときには開高健「裸の王様」が受賞。開高の受賞時丹羽文雄は「技巧の点では大江のほうが上だが、視野が狭くて落ちた。開高は作品に傷はあるけれども、故島木健作の持っていたシンの強さがあり、視野も広い」としている。「飼育」は大江の故郷である四国の村を舞台に子供である「僕」と村人に捕らえられた黒人兵との関係を描いた作品で、当時の大江はサルトルの 影響を強く受けた作風であった。「飼育」は選考委員の間で評価の高さは一致したものの前述の通りすでに大江が有名作家となっていたことが議論の的となり、 「今回は賞無しというのも少し淋しいかと思って」(瀧井孝作)というような意見から受賞が決定した。舟橋聖一は「死者の奢り」にこそ賞を出したかったとい う選評を行なっている。


村上龍 『限りなく透明に近いブルー』(第75回・1976年上半期)354万部(単行本131万部、文庫223万部)
作者の実体験に基づき、米軍基地に近い町でドラッグとセックスに溺れる若者をLSD的な感覚で描いた作品。センセーショナルな内容が話題となり、歴代受賞作で最も売れた作品となった。選考では意見が真っ二つに分かれ「因果なことに才能がある」と評した吉行淳之介のほか、丹羽文雄、中村光夫、井上靖が支持したが永井龍男、瀧井孝作が強く反発。受賞後も江藤淳が酷評するなど論議を起こした。受賞作は村上自身の手により1979年に映画化されている。


綿矢(わたや)りさ 『蹴りたい背中』(第130回・2003年下半期)127万部(単行本のみ)
綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で20歳の金原ひとみと同時受賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限 りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもの で、唯一反対した三浦哲郎を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」(池澤夏樹)、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」(高樹のぶ子)と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10~20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた。


ところで 千の風 を作った 新井満氏は芥川賞作家だったんですね。第99回芥川賞受賞作品 (1988年上半期) - 新井満 「尋ね人の時間」



photo by ASA  Waihee Valley



直木三十五賞(なおきさんじゅうごしょう)とは無名・新進及び中堅作家による大衆小説作品に与えられる文学賞である。通称は直木賞。
かつては芥川賞と同じく無名・新人作家に対する賞であったが後述のような理由により、現在では中堅作家でも対象とされる。実際上はデビュー30年に 及ぶような大ベテラン作家も対象となっており、第142回受賞の佐々木譲は一部選考委員より遥かに文歴の古い、長老に近い作家である。
文藝春秋社社長の菊池寛が友人の直木三十五を記念して1935年に芥川龍之介賞(芥川賞)とともに創設し、以降年2回発表される。
授賞する作品は選考委員の合議によって決定され、受賞作は『オール讀物』に掲載される。第6回から、財団法人日本文学振興会により運営されている。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが、1949年に復活した。
現在の選考委員は、浅田次郎、阿刀田高、五木寛之、井上ひさし、北方謙三、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、宮部みゆき、渡辺淳一の10名。選考会は、料亭・新喜楽の2階で行われる(芥川賞選考会は1階)。




それでは次に 先週1月15日(金)に tホノルル PIPE LINE CAFE で行われた宇多田ヒカルさんライブの映像をご覧ください。これは個人的に携帯電話のカメラで撮られ YOU TUBE にUPされたものから選んでお届けしています。


MY OPINION AFTER THE SHOW:
彼女のように国際的規模の歌手が 本格的なコンサート・ホールではなく こういう小規模なステージで ライブをされたというのは 本人の希望だったようですが  私個人的には残念な想いです。結果的には 前列で彼女を間近で見ることができた人たちはごく少数で それもすし詰め状態だったため 体を動かすこともできず こういう形態のライブではかなり乗りが悪いオーディエンスの印象でした。多数のオーディエンスが楽しめるものではなかった というのと 音の質の点では問題ありでしたね。 もちろん携帯電話のビデオ画像、音質では高度なものは望めませんが あまりお聞かせできる代物ではないですね。みじかいものをひとつUPします。(勝手に拝借しといてこんなことをいうなんて申し訳ないですが。)



ホノルルの後 彼女はLAでライブをしましたが そちらではかなり乗りがよくなっているのがわかります。ちょっと比べて見ていただくためにもその映像も入れておきます。
最後に一言 彼女の歌はやっぱり最高でしたけどね。私これでも彼女のファンですから。


あ~~あ、宇多田ヒカルさん、今度はマウイにも来てよね。 彼女のコンサートチケットを宣伝していたホノルル日本語ラジオ放送局でさえ 彼女のインタビュー等は許可されなかったそうなので マウイ日本語ラジオではますます無理かな。
  LA                            Honolulu

 SONG LIST FOR 1/17/10


1.COME BACK TO ME / 宇多田ヒカル  Come Back To Me / Utada Hikaru

2.CAN YOU KEEP A SECRET / 宇多田ヒカル  Can You Keep A Secret / Utada Hikaru

3.FIRST LOVE / 宇多田ヒカル  First Love  / Utada Hikaru

4.Ya! Ya! Ya! / CHAGE & ASKA   Ya! Ya! Ya! /  Chage & Aska

5.さよならの向こう側 / 山口百恵    Sayonara no mukou-gawa /  Yamaguchi Momoe

6.好き好き小唄 / 並木順      Suki Suki Kouta / Namiki Jun

7.むらさきの夜明け / 美空ひばり  Murasaki no Yoake / Misora Hibari




 それでは最後に 私がホノルルに行っている間に 私の愛犬ラッキーの散歩してくれていたASAさんが撮った ラッキーの写真です。




ラッキーはとてもうれしそうです。
感謝、感謝 *^^*


それではこの辺で。 また来週~~~。